下伊那郡天龍村の雨樋修理・交換に関する情報

下伊那郡天龍村について

天龍村は長野県の南端、愛知・静岡両県に隣接し、東西11.4㎞、南北 9.9㎞の不整形をなし、総面積109.44K㎡、その93%は山岳重畳、起伏のはげしい林野であり、村のほぼ中央を流れる天竜川とこれに注ぐ各支流沿いの両岸と山腹の一部にわずかに耕地が存在する純山村を呈しています。

地勢は、中央構造線の西側、中部山岳地帯の南端に位置し、本村最高峰の熊伏山(1,654m) 、観音山(1,418.2m)、地蔵峠(1,196.6m) 、そして遠山川、小河内川、早木戸川、虫川が深いV字渓谷をきざみ、海抜 280~ 1,000mの山ふところに集落が点在しています。

地質は、古期花崗岩及び領家変成岩が主体で、後者は縞状片麻岩、片麻岩状石英内緑岩等を母体とした砂質土壌です。

気候は、周囲を 1,000m級の山脈と起伏の多い急傾斜地に囲まれているため、寒暖の差の著しい内陸性を呈するが、年平均気温13.0℃、年間降雨量約 2,000㎜と高温多湿の気候であり、シュロ、ゆず、カシ等暖帯性の植生が特徴的で県下では最も温暖な地帯です。

天龍村には縄文中期以降の出土品を数多くみることができます。文献では文和元年(1352年) に武士の土着が明記され、中世の出城跡、神社も伝承されています。近世では江戸幕府の天領として天竜川を利用しての材木の産地の役割を担っていました。

旧平岡村は、徳川時代遠州中泉氏の支配下にあり、幕末には駿府の代官飯島役所の所轄で、いわゆる天領でした。
明治4年の廃藩置県当時は満島村、鶯巣村、長沼松島村と呼ばれ、遠山10ヶ村の連合体を組織していました。翌5年満島村は鶯巣村と合併し平岡村となり、長沼松島村は神原村となりました。
明治17年長沼松島村は神原村より分離して長島村となり、明治22年平岡村と長島村は合併して平岡村となりました。
旧神原村も天領地で、明治4年の廃藩置県当時は長沼松島村、福島村、坂部村、向方村よりなり、遠山10ヶ村の連合体の一部でした。
明治5年遠山10ヶ村の連合体より分離し、長沼松島村、福島村、坂部村、向方村は神原村となったが、明治17年長沼松島村は神原村より分離して長島村となった。
翌18年神原村は旦開村、和合村、売木村と連合村を組織したが、明治22年の町村制施行に際し、その連合体から分離しました。
昭和27年町村合併促進法が公布され、その頃から県の広報活動等による勧奨が盛んに行われるようになりました。
昭和31年2月9日長野県知事より平岡村、神原村の村長、議長宛てに町村合併の勧奨があり、昭和31年9月30日天龍村が誕生し、今日に至っています。

明治末から大正初期にかけて旧王子製紙が遠山川流域を大規模に伐採したことにより、域内の木材活況期を迎え、人口も 4,000人台を数えました。
人と山との深いかかわりの経済的側面を物量的に例証した一時期で、他地域から流入した山林労務者等がこの地域に定着しました。
その後昭和12年三信鉄道(昭18、国鉄飯田線)の開通を迎え、これに伴う工事従事者の流入等で昭和10年には 6,199人の人口となりました。
第二次大戦後当時は、日本最大規模の平岡ダム工事により昭和25年には 8,337人を擁するに至りました。
昭和31年の合併時には平岡ダム工事の終息に伴う人口減少(社会的減)により、 6,452人を数えましたが、その後高度成長時代に入り若年層の都市部への流出が始まり、以来深刻な状況を迎えています。

下伊那郡天龍村の
雨樋修理・交換・清掃
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